今朝の私
Young Girl in a Blue Dress, Auguste Renoir, The Metropolitan Museum of Art
画家が描いた絵画はほぼ永久にそのままで保存されている。絵の中の人物が動き出すことはないし、年を取ることもない。ヒトは、自己も変化せずに常に保存されているという暗黙の前提に立っている。だから、周りの時間の方が流れて事物が変化するように感じてしまう。しかし、時間は流れない。変化するのは事物の連なりの方だ。そして、実際には自己の意識もまた絶えず変化している、とされる。
アリゾナ州立大学教授ポール・デイヴィス著「生物の中の悪魔」(SB Creative)によれば、時間は流れない。では、実際に流れるのは何だろうか?それは、瞬間ごとに変化するつかの間の自己の意識だ。時間が流れたり経過したりするという思い違いの源は、自己は「保存されている」という暗黙の前提にさかのぼることができる。人は当然、「自分」は瞬間から瞬間へと持続していて、世界の方が「時間が流れる」せいで変化するのだと考える。しかし、今日の「あなた」は昨日の「あなた」とは違う。もちろん、今日のあなたと昨日のあなたとのあいだには、きわめて強い相関関係がある。共通する大量の情報が存在する。しかし、自己は保存されているわけではない。「自己」というのは、保存された情報が作る、ゆっくりと変化する複雑なパターンであって、その情報は後からアクセスすることができ、新たな認識と合致させるためのテンプレート情報となる。時間の流れという幻想は、必然的なわずかな不一致に根ざしている、という。
朝目覚めたとき、自分は何者かというところからスタートする人はまずいない。「自己」が「テンプレート情報」でないならば、ヒトは絶えず自分自身について、あるいは自己と環境・周りの人々との関係についての情報を一から吟味し続けなければならなくなってしまう。だが、そんなことをしていたらヒトが今日まで命をつないでくることは不可能だったろう。たちまち捕食者の餌食になるか事故にあってしまう。個々の判断についてもそうだ。ヒトは自分がこれまでの経験の中で確立したものを基準にして物事を判断することが多い。判断の基準が絶え間なく変わるようだと、安定した正しい判断を素早く行うことができない。だから、自己は常に保存されていて不変だという前提に無意識のうちに立っている。不変だという前提で行動するのは結果として概ね正しいことになる。しかし、実際には外界にある事物も、自分自身も絶えず変化している。昨夜の私と今朝の私とは、厳密にいえば異なっている。そうでなければ、乳児が大人にまで成長することもできない。