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揺り戻し

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The Penitent Magdalen, Georges de La Tour, The Metropolitan Museum of Art

罪を司祭に告白して許されるという便利な制度は、人類の「偉大な」発明の一つだ。長い人生の中で罪を一つも犯さないでいるというのは容易ではない。公平性への信念を失うということも容易ではない。公平性というものに影響された行動が、オマキザルやチンパンジーの実験で確認されている。不公平な事態は彼らの憤慨を引き起こした、とされる。

カリフォルニア工科大学教授ショーン・キャロル著「この宇宙の片隅に」(青土社)によれば、霊長類学者のフランス・ド・ヴァールは、共感、公平、協調の起源を霊長類で調べる研究を行ってきた。ある有名な実験では、共同研究者のセーラ・ブロスナンとともに、二頭のオマキザルを別々の檻に入れ、お互いが見えるようにした。二頭は単純な作業を行うと、スライスしたキュウリのご褒美をもらえる。二頭のオマキザルはこの状況に喜んで、作業を何度も行ってはキュウリをもらった。そこで実験する側が、一方のサルにはブドウを与えるようにした。キュウリよりも甘く、どこから見てもそっちの方がよい。ブドウをもらわなかった方のサルは、それまではキュウリで喜んでいたのに、事態を見て、与えられた課題をこなすのを拒否して、新体制の不平等に怒った。ブロスナンのチームによるチンパンジーを使った最近の研究では、ブドウをもらう方のチンパンジーが喜ばない場合があることも明らかにした。ひいきされた方も公平でないことに憤慨しているのだ。私たちの最も進んだ道徳的関心の中には、進化論上の起源が非常に古いものもある、という。

公平性を貴ぶ観念は、ヒトだけではなく、類人猿やサルにも見られるほど根本的かつ普遍的なものだということだ。ヒトの社会で富や仕事の機会の偏在があまりに大きくなると、一方には、そのことに居心地の悪さを感じる人々が生じ、他方には、そのことに強烈な不満を感じる人々が生じる。前者にはビル・ゲイツが入るのかもしれない。後者には米国ラスト・ベルトの白人労働者が含まれるだろう。狩猟採集社会にはビル・ゲイツは生まれ得ない。現代の米国だからこそ誕生した。富と機会の極端な偏在を生んでいる米国の政治経済システムは、サル・類人猿・ヒトに共通する根本的価値観とそぐわないものである可能性がある。米国が独立宣言を出してからまだ242年、一方、公平性の観念には数千万年の歴史がある。米国社会に何らかの揺り戻しがあったとしても不思議ではない。

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

責任

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The Lovers, Painting by Riza-yi `Abbasi, The Metropolitan Museum of Art

たとえ恋人同士であっても、二人の心の中が完全に一致しているとは限らない。一人の人間でさえも、「結果主義」的に考えているときと、「義務論」的に考えているときには、脳の中の異なるモジュールが活動している、とされる。

カリフォルニア工科大学教授ショーン・キャロル著「この宇宙の片隅に」(青土社)によれば、結果主義者は、ある行動の道徳的意味はその行動が引き起こす結果によって決まると思うのに対し、義務論者は、行動の是非は、どんな結果を生むかによって決まるのではなく、それ自体で道徳的に正しかったり間違っていたりすると思っている。功利主義の有名な格言、「最大多数の最大幸福」は典型的な結果主義的思考だ。「自分に対してしてほしいように、他人に対してなせ」という「黄金律」が現場の義務論の一例といえる。たいていの人々の標準的な道徳感覚には、結果主義と義務論の両方が含まれている。心理学者のジョシュア・グリーンは、MRIにかけられながらいろいろな道徳上のジレンマについて考えるよう求められる被験者を募って調べた。「人称的」状況(橋から人を落とすような)を考えているときは、脳の感情や社会的推論に関係する領域での活動が高まった。「非人称的」状況(トロッコの切り替えスイッチを入れる。結果として、一人の犠牲でより多くを救うことになるような)では、認知や高次の推理に関わる部分が関与する。状況が少し違う場合を処理せざるを得ないときに、私たちの[脳の]中のいろいろなモジュールが始動する、という。

個人個人の脳は物理的に異なっているし、その時々でその個人の脳のどのモジュールが作動するかもまた異なるのだから、道徳的な判断について人々の意見が一致することは容易ではないということになる。たとえば義務論的に判断する場合と、結果主義で判断する場合で、結論が異なることは大いにあり得る。一人の人間がその両方で熟慮したとしても、どちらの結論を採用するかでは、また、ヒトによって異なることだろう。だから、基本的には世の中に多様な意見があって当然だということになる。しかし、一人の個人として下した判断や行為については、酒に酔っていようと、思想に酔っていようと、どういう事情があったとしても、そのことについての責任を負わなければならない。特に公的立場にいる人であればなおさらだ。丸山穂高衆院議員も、北方領土返還に関し「戦争をしないとどうしようもなくないか」などと不適切発言をした問題については、明らかに大多数の国民の意志に反しており、外交上の影響を引き起こしかねないという点において、政治責任を取らなければならないだろう。

テーマ : 文明・文化&思想
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個体と種

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The Greek Lovers, Henry Peters Gray, The Metropolitan Museum of Art

アテネであろうと東京であろうと、二人の愛は、正確には、永遠ではありえない。最長でも生きている間しかなく、平均的な寿命の間の心拍数はどの哺乳類についてもだいたい15億回だ。高度な医療や栄養の恩恵を受ける現代では、人間はその2倍の30億回になる、とされる。

カリフォルニア工科大学教授ショーン・キャロル著「この宇宙の片隅に」(青土社)によれば、物理学者のジェフリー・ウェストは、幅広い複雑系に見られる顕著な「スケーリング則」を研究した。このスケーリング則とは、系のある一つの特色が、他の特色の変化にどう応じるかを記述するパターンのことだ。たとえば、哺乳類では、予想される寿命は個体の平均体重の1/4乗に比例して増減する。つまり哺乳類の場合、体重が16倍になれば、小さい方より2倍長生きするということだ、しかし同時に、哺乳類の心拍の間隔も体重の1/4乗に比例して増減する。その結果、二つの影響が相殺され、平均的な寿命の間の心拍数はどの哺乳類についてもだいたい同じ(約15億回)になる。人間の心拍数はふつう、1分に60回から100回程度。高度な医療や栄養の恩恵を受ける現代世界では、人間はウェストのスケーリング則から予想されるより平均して2倍長生きする。心拍数30億回というのはさほど大きな数ではない。あなたは自分に与えられた心拍数で何をするだろう、という。

たとえばゾウとマウスとは外見も能力も大いに異なっている。しかし、例外はあるものの、哺乳類全体について、平均的な寿命の間の心拍数は15億回で変わりがないということだ。個体の一生の心拍数については、それを大きく変えるだけの事情が進化の面ではなかったということになる。このことが意味するのは、哺乳類は、個体の寿命をできるだけ長くするよりも、それはある程度のところに留め置いて、寧ろ世代交代に伴う突然変異による種の進化の方に重きを置いてきた、ということかもしれない。そうだとすれば、たとえば秦の始皇帝のように個体が永遠の命を探し求めようとしても、それは初めから無駄な努力であったということになる。

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矛盾

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Erasmus of Rotterdam, Hans Holbein the Younger, The Metropolitan Museum of Art

15~16世紀を生きたエラスムスは腐敗したカソリック協会を批判したが、キリスト教そのものへの信仰は揺るがなかった。21世紀の今、或る自然科学者の揺るがぬ確信は、私たちはみな同じ宇宙、同じ自然法則、この世にある短い時間で、意味を創造して自分と身の回りの人々を大事にするという同じ根本的課題を共有している、ということだ。

カリフォルニア工科大学教授ショーン・キャロル著「この宇宙の片隅に」(青土社)によれば、多くの人々に宇宙の驚異を紹介したカール・セーガンが1996年に亡くなった。2003年のある催しのとき、その妻のアン・ドルイヤンがセーガンのことを聞かれた。その答えは引いておくに値する。「夫は神を信じないことで知られておりましたから、亡くなったときや、今でもときどき、多くの方々が私のところへ来られてはカールが最後には気を変えて死後の世界を信じる方に宗旨替えをしたかと尋ねられました。私がもう一度カールに会えると思うかと聞かれることもしょっちゅうでした。カールは最期まで勇気をもって死に臨みましたし、幻想に逃げることもありませんでした。悲しいのは、二人がもう二度と会うことがないのを知っているということでした。私はまたカールと会えると期待することはありません。けれども、すてきなことは、私たちが一緒になったとき、もう20年以上前ですけれども、人生は短くて大切なものだということをよくよく承知して暮らしていたことです。私たちは死ぬことが最後の別れではないかのようなふりをして、その意味を軽くするようなことはありませんでした。私たちが生きていて、一緒にいた一瞬一瞬が奇跡でした。説明のつかない奇跡でも超自然の意味での奇跡でもありません。私たちは自分たちが偶然の恩恵を受けていることを知っていました。・・・私たちが広大な空間と膨大な時間の中で出会えたこと、・・・私たちが20年一緒にいられたこと、そういうことが私を支えていますし、それは意味があるどころではありません。カールの私との接し方、私のカールとの接し方、カールが生きていた間のお互いと家族に対する思いやり方。そういうことの方が、いつかまた会えるという願いよりもずっと大事なことです。私はカールにまた会えるとは思いません。でも私はカールと出会いました。お互いに出会いました。この宇宙の中でお互いを見つけたことがすごいことなんです。」自分たちの命が有限であることに向き合うには勇気がいるし、自分たちの存在に大した目的があるわけではないことを認めるとなると、もっと勇気がいる。ドルイヤンの考察で最も印象的なところは、自分がカール・セーガンにまた会うことはないと認めているところではなく、そもそも二人が出会ったことが純然たる偶然だったことを認めているところだ。すべての人生は異なり、他の人には決して知りえない苦境に直面するものもある。しかしみな同じ宇宙、同じ自然法則、この世にある短い時間で意味を創造して自分と身の回りの人々を大事にするという同じ根本的課題を共有している、という。

現代の多くの自然科学者がそのような考え方に至っていると思われる。ドナルド・トランプは、彼の税務申告書が正しいとするならば、税務上11年間で11億ドルの巨額損失を計上しながらもそれを隠して不動産王を装い、自ら作り上げた幻想に取りつかれながら他者を欺くことに全精力を費やすという珍しい人生を生きている。そういうトランプ等とは異なり、自然科学者たちは、知的探求の果てにこれまでの人類よりもはるかに広く深く真理に近づくことができた。しかし、そこにも直接的な救済のようなものはない。むしろ、曖昧な幻想の雲が消えてより明確化した科学的事実と、自分の中の自己保存・種保存に関わる変わらぬ情動との矛盾を、どのように解消するかという課題を突き付けられている、ように思われる。

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二つの世界

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The Fishermen (Fantastic Scene), Paul Cézanne, The Metropolitan Museum of Art

絵画の場合、対象となるものに即していようと、まったくの想像であろうと、それらが混ざっていようと、それ自体に問題はない。科学的には、微視的記述と巨視的記述は両立する。人間を量子の波動関数として記述することも、意志の働きとして記述することも可能だ。しかし、発現レベルの異なる両方を一緒にして記述しようとすると意味をなさなくなる。

カリフォルニア工科大学教授ショーン・キャロル著「この宇宙の片隅に」(青土社)によれば、人間を原子の集合体として、あるいは量子の波動関数として記述する場面では、自由意志のような概念の出る幕はない。しかしそのことは、人間を人々として記述しようとする際にその概念が有用に活躍するかどうかとは無関係だ。実際には、明らかに有用に活躍する。この立場は哲学の世界では「両立主義」と呼ばれ、根底にある決定論的(少なくとも非人称的)科学的記述と、選択や意志という巨視的な語彙とが両立することをいう。朝、シャワーから出てクローゼットへ行き、黒いシャツにするか青いシャツにするか考えるとする。それは行わなけれならない意志決定で、「ともあれ自分の体の中の原子が決定論的にすることをする」というだけというのはできない。原子はなるようになることを行う。それがどうなるか、あなたは知らないし、あなたがどれにするか決めるという問題には関係ない。あなたとあなたの選択を用いて問いを立てれば、原子や物理法則についても語るというのはできない。どちらの語彙も文句なく正当でも、両者をごっちゃにすると無意味になる、という。

実際に私たちの社会はそのように運用されている。たとえば、故意に人を殺したとして起訴されて、裁判の時に、殺人は自分の意志とはかかわりなく、量子が波動関数に従って勝手に相互作用を行っただけで自分は無罪だと主張しても、裁判官に受け入れられることはない。裁判は法的世界の事実と法律の定めるところに基づいて行われるだけで、量子の波動関数は、たとえ物理的事実であるとしても、別の次元の話で無関係だということになる。刑法第199条により、死刑または無期もしくはもしくは5年以上の懲役に処せられることになるだろう。ただし、最後までそのような主張を続けていれば、心神喪失で無罪となる可能性はゼロではない。

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